昭和56年8月16日 大祈願祭 入力者松本正宏
皆さんおめでとうございます。
今朝からお届けの後にでしたけれども今本部のほうから夫婦で御用に帰ってきております。昨日の前夜祭には若先生が祭主を務めました。私は下から玉串だけを奉らせて頂きました。その時に順子先生がはっきり頂いたというて今朝からお届けするのですけれども、天地の代表ということを頂いたそうです。皆さんどういうことだと思いますか。天地の代表。教会では信徒会長を始め、総代さん方が代表で玉串をあげます。その、例えば玉串をあげるという一つの行じですけれども、それがいわゆる俗に言われます、玉串総代、玉串を上げるために総代がおるというのでは勿論いけません。私はどういう風にそれを頂いてよいか私も分かりませんけれども、天地が代表と。いうなら、地球上にその総氏子、まあ天地と言うてもよいかもしれませんけれども、総氏子と言う事を言われます。その総氏子の代表として、なら私が借りに玉串を奉ったとするならば、ね、私のその代表であるその玉串の内容は、どのようなものでなからなければならんだろうかと思います。
改めて私は今日の御祝詞を奏上させて頂きながら、人間総氏子の助かり世界真の平和、そのことをどういう祈りの言葉、御祝詞の言葉ではなくて、実感としてその事を祈らせてもらう、願わせてもらうと言うこと。どういうことなんだ、言葉にね、天下国家のことでも祈る。世界総氏子身の上安全のこともいうけれども、言うだけならどんなにでもいえます。玉串を上げるだけなら誰でもあげられますけれどもその例えば、今日順子先生がお届けをするのを聞いてね、私は本当にその、それを私を祭主として今日のお祭りを仕えさせてもろうて、そして、御祝詞の中にもうさせてもらいました、あれには、もう一言一句私の心の嘘は無いのです。もうあのままです私の願い。しかもその願いに向けて一歩一歩近づかせてもらわなければならない。先だって、高松先生ところの昨日一昨日でしたか、霊祭がございました。あれは、もう思いを込めてお供え物一つの上にも思いを込めて、親戚中の者がそれこそ集い集まっての、まあ、式年のお祭りでございましたが、御霊様に通う、神様に通うという事はどういう事なのか。賑々しゅう例えば沢山の金を掛けて、お祭りが出来たからそれでよいという事ではない。その思いの中には心が無からなければならないという事は一般に申します。いうなら心をこめて真心でという風に申しますけれども、私が頂きましたのは、真、心、それから、真。真の心。ね。真という字。ごんべんの字じゃない。この真。ね。それから、その事を信じるという信。三つの芯がその内容に奈良からなければならないという。ね。本当に御霊様が喜んで頂く為に、またはご先祖、または子供の為の式年でしたが、ね、ご先祖様が皆、御霊様たちにも通う、勿論神様にも通うというものでなからなければ、ならんですが、それが真真、いや、真心しんという事が、三つが内容でなからなければならないという事。ただ言葉だけならどんなにでも言えますよね。お話しとってっちゃ、すぐ分かってはあそうですか、分かるのです。私はこれは五六日前の朝ですけれども、これは総入れ歯でございますから、休ませてもらう時に、洗面所の横に入れ歯を置いて、休む。だから朝、その、入れ歯をはめさせて頂く時にはそれこそ今日もお世話になりますである。今の金光様はこの事をしきりに仰いますよね。全てのことにお世話になってとこう仰います。だから今までも、今までもお世話になりてという事は、毎朝言うてきたのだけれども、何か神様に通うていなかったような感じがする。何か四五日前のお世話になりますが本当に芯からお世話になりますという思いが何かこう、いつもと違った感じだったが、それこそ、どこからとも分からん天井でしたけれども、大きなお勇みを頂きました。
ね。だから物に感謝せんならんという事でもいわゆる教祖が仰る、真にと仰る、真にありがたしという思う心がすぐにみかげの初めであってね、その真にという事の中身というものは、真であり心であり、同時にそれを信じるという事である。ご先祖の御霊のお祭りをさせて頂いておる、これが、久保山家高松家ですけれども、その久保山のご先祖があって今日の久保山があるという事を信じる事だというてその時に話した事でした。ご先祖があって今日の私があり、例えば久保山家でしたから、それは、ご先祖があって、今日の久保山があるのだというそれを信じるという事です。ただ、形式にただ式年が来たから式年祭を先生に仕えてもらうという事だけではない。それを仕えるもの人たちのいわゆる、真が求められ、信じるという事が、それが信心なんですやっぱり。ね。その信心がないと、それをまあ、どげな立派なお祭りをしてもらったけん、御霊が喜びよるじゃろうという位な事。もう喜んでおることが自分の心の中に通うてくる。交流する。御霊の喜びがまた、神様の喜びがこれに通うてくる。
ね。そういうもののが、(?)いうならば、毎日毎日、神様(?)せんならん、はあこれにもお世話になります、これにもお世話になりますという事は金光様のお歌を聞いただけで分かるわけ。けれどもそれが神様に通うというような、いうならお世話になりますという事は真、真であり心であり、信じるという内容が、充実したもの、充実してくればしてくるほど、神様にも通うという事にもなります。私は昨日から少し興奮状態です。というのは私は昨日の朝のご理解に皆さんに聞いて頂きましたけれども、皆さんが信じるなら、なおありがたいです。信じないなら信じないでもよい。まあおおらかな心で聞いて下さいよというお話を致しました。
ご理解に、金の杖をつけば曲がる、竹や木は折れる。神を杖につけば楽じゃと。沢山の信心を頂いており、私はもう金光様一本、私は金光様を信じておりますというても、もしあなたが楽でないならば色んな意味で。心の上でも経済の上でも楽でないならば、あなたはまだまだ、神本当に杖についていないという事なんです。まだ、金を杖についたり物を杖についたり、ね。いうなら私は健康だから私はこの腕にと、自分の腕を過信しておってもいよいよの時になってみると、この腕もいうなら、金も物も人も今までこの人を頼りにしておると思っておったその人も頼りにならん事が分かって初めて、私は神を杖につくという事になる。日田の堀尾先生のご信心は、障子一重がままならぬ人の身であるということをこれほどしに、いわゆる深く広く分かられた先生はなかろうというふうに、当時聞かせて頂いておってあんまり意味が分からなかった。
けれどもね、結局神様があなたのおかげを頂かなければ立ち行かん、その神様が絶対で分かってくればくるほど、心に頂くのが楽な心です。安心の心です。ね。障子一重がままならぬ人の身であるという事が分かった神様のおかげを頂かなければ何一つだって出来る事じゃないのだと、こうして勺を持っておっても、今日私は足がよろよろしております。もう昨日から、どうしても今朝からとうきび一本頂いただけです。物を頂くと、こう、ああ、頂きます。昨日私の主治医というか、御信者さんで、もうこの日にちを決めておいでて下さる糖尿病の権威と言われる山口支部長のご長男浅野先生。本当先生の体が分からん。本当に色んな機会があります、体を調べる。(?)今度は皆全ての点に、まあ、健康状態のような状態が続く。ところが実際私はきついのです。ね。悪いと先生が言われるときには私はあんまりきつくないといったようなやはり不思議な現象があるのですよね。私の体の上に。昨日から実は私はきつい。今もこちらでがけにとにかくきつい、顔色に出てくるから分かるわけです。で、繁雄さんがすぐ、あのお菓子を甘いお菓子を持って来てそれを四つ三つ頂いて。頂くと少し元気なる。ですから医者が見立てる私の体と神様が見立ててくださる体は違うようです。
ね。大祭前にいうならば体の状態がこんなに良いからとまあ言われて今朝から文男先生がそれは詳しく聞かせてもろうて、聞かせてもろうたのですけれども。ところが実際は体がきつい。結局医者でもなからなければ薬でもない。神様のおかげを頂かなければ私の体は立ち行かん。皆さんはどうかしらん。私の体は神様のおかげを頂かなければ立ち行かんのである。私が段々信心をさせてもろうて、神を杖につけば楽じゃというような心が段々開けてくる。心が安らいでくる。まあ安心のおかげとでも申しましょうか。これはね、安心立命とは違う。安心。いわゆる傘一本で開ける道と仰せられる傘一本なのです。ね。一本の傘を頂いておるから、例えば今にも降りそうであっても、いよいよの時にはこれをさせばよかとこういう。熱い時には傘で日陰を作ったらよい。ね。そういう、安心の心が段々頂けて参ります。その都度都度に頂けて参ります。ね。その安心の心におかげが頂けれる。安心立命といったようなことは私は、仏教のことは詳しくは分かりませんけれどもね、あれはねおかげの伴わないようなものですね。金光様と仰る安心とはね、絶対おかげが伴うです。嫌というても、だから諦観諦め。的なもののように感じるです。
先だってから宮崎のあるところで宅祭りをさせて頂いて、私は勿論参られませんから、梶原先生から、それでお説教を梶原先生がさせて頂いた。丁度そこにある教会の若先生が何人かでそのお祭りを拝んでおられた。そして梶原先生が話した後に、私のいうならいつも言っておるからその通りのことを話したのです。ね。今の、仏教の言う安心立命と合楽で言われる安心というのは違うのだと。合楽で頂く安心というのは必ず、絶対おかげが伴うのだと。ね。それこそりゅうあん寺の手洗い、手水鉢ではないですけれどもね、我只足るを知る。そういう一つの観念というものはいわゆる宗教的修行から生まれてくるのですね。不平不足を言わん。我只足るを知るというような心が生まれてくる。だから不平不足を言うよりもましですけれども、そういう、心が開けてきたら、もう必ず人間の幸福の条件が足ろうてくるというのが教祖金光大神の安心です。ね。
お話を終わらせて頂いたらその先生が梶原先生いうならあんた偉そうに話しよったがと言うわけでしょう。仏教で言う、あんたは輪廻という事をあんた言い寄ったが、あんた知っとるかと。輪廻ちいう事はどういう事か。例えば仏教で言う、輪廻とか因縁とかいう事を持ちだしたら、人間が幸せになっていく事の為には役に立たないです。いやむしろね、もう大変な難しい事になるのです。それはまあ仏教も哲学といわれるくらいですから、勉強して面白いでしょうね。確かに深い理が説いてあるでしょうね。けれども、私はただ輪廻というのは、こうもうこれはいわゆるめぐりめぐってきた一つの因果というかね因縁といったようなもの、だから、この難儀はそのためだと言われた。ね。だからその、これはキリスト教で言う、罪というような事でもやっぱそうでしょうね。この罪とか原罪とかに話が入っていきますならばもういよいよ難しいものです。その証拠に助かっていないです。助かられないです。そういう意味の話を、輪廻ち知っておるかち。詳しくは知らん。いうならば知りもせずに、仏教の輪廻の因縁というような事を言うては可笑しいじゃないかと言う意味だったらしいですけれども。ね。いうなら私が言う、いうならば輪廻とか罪とかというねそれを詮索して行ったら人間は助からんごと出来ておるです。
罪の為だとか。因縁の為だとか、それが輪廻だとこう言うふうに言われたらね。ところが、教祖金光大神の信心はどういう事かというとそれこそ和賀心一つで、いわゆる心一つで全てを作ると言われる、それはなるほど罪もあろう因縁もあろう、罪あろう原罪もあるかも知れんけれども、それは人間の幸せに直結するものではない。私はあるときにこの事を神様に御願いさせて頂いたら、玉ねぎのね、小さい根がついておる、小さい根が付いておるでしょう。玉ねぎの下に。ね。沢山ついておりますよ。糸のようにだからここは切って捨てて良いのだと。人間が幸せになっていくことのための、ここの玉ねぎのところだけを頂いたら良いのだと。切って捨てて食べられんところでしょうが。もうそこは、切って捨てて何もならないようなところを詮索して一つの学問に仕上げたりなにかしておる。
先だって、私、テレビを見よったら、天中殺の何か本ば書いた人が何か平謝りに謝っておるそのテレビがあってましょうが。ね。根拠の無い物を一つの学問のようにまあ、学問にして説明したそれで、大変な人がその災いを招いたわけです。難儀なことになったです。商売繁盛しておってもあんたの商売は繁盛せんとその、天中殺に書いてあったから、商売を止めて大損したという人たちからこう色んな問題が起こったわけです。だからその言うなら、そういう易学とか知りませんけれども学というくらいですから、それをね、究明してあの、系統だてていったら一つの学問になるかもしれませんね。けれどもそういう事は好きな人に任せておって、人間が幸せになることの為にはただただ和賀心とは和の心賀の心を今日の御祝詞の中にも申しましたように、ね、いうならば私は金光教の信心が和道十全だと申しております。和の道はあらゆる宗教が説きますけれども、十全でないです。ね。例えばその生き方の中にです、食べ物の一つの上にでもです、こう言うものは食べてはいかん、こういうものは飲んじゃいかん、こげな事はしてはいけないというたらもう十全ではないでしょう。金光教祖はそうじゃないです。人間が人間らしく生きながら、そして好きな物も頂いてよし好きな事をしてもよい。正しそれが、我情であったり我欲であったりしてはいけないけれども、ね、神様頂きますという心あらばあたる事なし。これは食べ物だけのことじゃない。一切のことがそうなんだ。御の字をつけて頂くという生き方。ね。ここには合楽理念がいたってくる時にです、ね、もう教祖の信心の深さ広さにもうただたあ驚くばかりです。そげな事がありましょうけれども、人間が人間らしゅう幸福になるという事において、しかもその幸福の元が信心の徳であり、その徳があの世にも残しておけこの世にも残しておけるという意味においての助かり。信心。ね。仏教哲学を身に付けなければならんとか、因縁の意味が分かるとか原罪の意味が分かるとかいったようなことは幸福には人間の幸福には繋がらん。それが分かったからというてあの世には持っていかれん。ね。そういうね、先ほどこちら出かけにこちらテレビで紀元前の何か発掘しておるのですね。考古学者の。それにね、あの、子供を生贄にしたという墓が沢山。ね。子供を犠牲にしておる。そりゃもう聞いただけで(途中切れ)しか生まれない宗教がありますよ。私は昨日ね、ここんとこを皆さんが信じる信じないは別としてね、私は信じる。また神様から頂いたことだから聞いて頂くけれどもというて、昨日私は、聞いてご理解で聞いてもらったのですけれどもね、過去数千年人間が作ったわけでも、作ったというてもいいかも知れません。宗教というのは。だから宗教というのすからやはり、和の道(途中切れ)和道十全の道は説いていないです。これはまあ程度の低いはなしでしょうけれども、数日前ここの村内の方達の結婚が中々よか都合がない。で、御願いに来ておった。御願いしておったら、おかげで適当な向こうも喜んでくださり本人達も気に入っておるという事になった。ところが向こうのお母さんが何々様に参り尋ねてこらしゃった。それが、すってんてんにひっくり返ってしもうた。それでこちらのお母さんが御願いに来たのですけれどもね。金光様に参りゃ例えばいけないものでもいけるように、助からないものでも助かるように道を開いてくださるのが金光様。それでも向こうの方にはどこにその不足もないけれども何々様に参ったらこの結婚はいけないと。まるきり人間の不幸せのためにあるまあ宗教とはいえないでしょうね。それこそ仏様神様の風上にもおけないような感じがさせて頂いたのですけれどもそれに似たりよったりの話が沢山ありますよ。ね。
そしてそれを私共が観念して絞っておる人すらがあるのですよ。お道の信心をさせて頂いてとにかく神様のおかげを頂かなければ立ち行かんという心の状態が開けてまいりましたら、その神様のお心に奉らなければ、という事になるのです。ね。昨日私が頂きましたのがね、過去の宗教のそれは助かるところか人の世に災いをする。それは丁度あの亡魂のようなものだ、亡霊のようなものだと。私がなら、せっかく日々和賀心時代を世界に教祖の神様は世界を金光大神の信心によって包みまわすとおおせられてある、その包みまわせるその内容と、ね、普遍性にとんだ信心をお道の信心だと私は思うのです。そういう内容を私は持っておっても、そこに、亡魂が、それに亡霊がおってそれが邪魔をする。和賀心時代をいよいよ世界に広めていこうとするけれども、災いをする。だからこういうものとの戦いというのは、これは大変なことなんだなあと。ね。だから、結局確実にいよいよ私共がまずは自分が助かり、ね、人が助かり、それこそ先ほどビリグイの末永先生のことが御祝詞の中に申しておりましたが、今年は、事の他寒がひどい。丁度あちらは今寒のまっ最中。今まで雪を見た事が無かったところに雪が降ったり霜が降りたりする。ところがビリグイ教会に関係のある大変、何十兆か何百兆ち持ったお百姓さん達がおられる。ね。とにかく、天地が自由になるちいう、神様じゃ無かろうというようなことで各州に広がっていった。そしてね、ある朝大変な霜の朝に、ね、あっちこっちから、お礼に出てこられたというておりましたが、その、何々さんの何十兆か何十兆というところだけに霜が降りていなかった。それがその人一人だけではない。名前を書いてきております。五人か六人かの方たちの上にそういう天地の親神様の働きを南米の地に現しておるというお礼の手紙がきました。ね。そういうね、いうならば実験実証を持ってです、やっぱり広がっていかなければならんのです。だからその芯になるものいわば神を杖につけば楽じゃという信心をねいよいよ身につけていかなければならん。ね。皆さんどうでしょう。私が今お話したことが、信じられる。嫌家はまだ仏教だからそげな事はなか、お経を上げてもらったり御法事をしたりすりゃやっぱありがたか。もう私に言わせるとナンセンスです。まあこんな事を言うたら怒られるかも知れませんけれども、私は昨日その事を頂いてです、もういよいよを持って金光教の信心が世に問われる時代が来なければならない。もうその機が熟した。そこに合楽の誕生があった。いうならば教祖の御教えをいよいよ深く広く極めて参りますと合楽理念という事になる。合楽理念に基づいての信心生活。ね
しかもね、いわゆる皆さんの場合はどうだった。私は昨日玉串をあげさせて頂いておる時に渕上先生が頂いたという天地の代表。ね。世界総氏子の事を願っておる人という事でしょう。これは皆さんも同じ事。だから代表と言われるからにはこれが本当に天地に通い神様に通うような祈りでもなからなければならない。為にはいよいよ信心の私は今朝からも皆さんに聞いて頂いたことですけれども、小学校の時に覚えておるとが馬鹿のいっちょのようにして覚えてですね、金光教はこうだと言い切る人がありますね。可笑しいです。小学校からいうなら中学校、大学にでもそれからもう本当に限りないね、いうなら真実から真実という、本当から本当を求めていくという信心。そして今言うようにその本当から本当のことを求めていくその過程においてです、だれでもなら、真の信心を頂きたいという事は思うておる。私は今、十二歳の時にその真の信心とやらを私は頂こうと思うた。それでならその間のことを真の信心に向かって進んできたかというとそうでもないけれども、言うておるだけでも手立てが分からなかった。一生懸命参ったり、御用を頂いたりすることだけではなかった。ね。けれどもやはり真の信心とはという追求それが今日の合楽理念であり、私は合楽理念を生んだ元であると思うのです。ですからねその本当のことになればなるほど、その助かりというか、おかげというものはそれに伴うてこなければならない。ね。先だってから今、毎日百名の方達からの食事を作りますからここの食堂も大変なんです。女の先生方がそのやってますけん、責任者がおってこう采配を振る。だから女とおしのことであるから、時々その感情のもつれがあったり、カチッとするようなこともやっぱるだろう。最近日田の梅山先生一家、親子三人がここで修行をしております。いわゆる奥さんやっぱ炊事の方の御用をさせてもらう。色んなことがある。その事を神様に御願いさせてもらいよった。そしたら神様から頂く事が感じでね、御土産と頂いた。それこそ御土産という字を漢字で書いてごらん。御、土を生むと書くでしょう。合楽の信心の芯のように言われておる黙って収める、成り行きを尊ぶ大切にするとかという、とにかく、とかく信心は地を肥やせ。ね。根を肥やせておれば独りでにものができるようなものぞと仰るいうならば私が今ここで言っておる成り行きを尊びなさいよ、黙って収めていきなさいよというのはいよいよあなた方の心が豊かに大きくなっていくという事なのです。だからいろんな問題もあろうけれどもそれこそありがたく頂いて帰ればおかげ船にも車にも積めん。いや神徳は船にも車にも積めぬほどしの御土産を頂いて帰れるというのに、途中で落として神を恨むようなものがあるというふうに言われますように、その土産というのは、ね、いわゆる御土を生むというような信心。だからこれには徹しなければならない。黙って収める。いや黙って収めるというかむしろ神様がね豊饒なね泥をいよいよ沢山下さってあるのだと思うて御礼を申し上げるような心が開けてきたらありがたいです。ね。
私はあの心が育つという事はそういう事だと思うのですよ。ね。信心のあるものでも無い者でも、カチッときた事が例えば、腹が立つというても同じような事柄で腹が立つといったようなことではね、おかげにならん。不思議に不思議に、昨日富久信会で最後に秋永先生が、富久信会というのはここでお商売をなさる方たちの会なんです。昨日前夜祭が終わった後、十一時過ぎまで皆さんの熱心なお話を聞かせてもらったのですけれども、結局答えはあり難いという答えを出していく以外に無いのだと。ね。それがね、たくまずして、教えを行じておると自分の心の中にそれが平気でできれる心の状態が開けてくるのだと。はあここは、辛抱せんならん、血の涙が出るごたるぐうぐうこらえるというのではない。ね。そういういうならば今朝からも信心辛抱という事がね、只、初めの間はようつろうてつろうてよう泣いたと三代様が仰せられるが、それが段々そういう修行を続けていくうちにです、ね、思う事もなくなり、欲しいものもなくなりあり難うして有り難うしてという心が開けてこなければならない。ところが不思議なんです、成り行きなら成り行きを尊ばせて頂く、いよいよ泥の信心に極まったとしてそれを頂いていっておるといわゆる心が豊饒になってくる。そしてしかもそれに独りでにものができるようなおかげを伴うてくるわけなんです。
これは村内から参ってくるある婦人の方ですけれどもね、ある団体の会長をしておられます。そしてこちらに団体の会長、あちらのおう偉いとどんがこうおるわけです。それでもう自分の言うとおりとおさなんちごたっとがやっぱ中におるわけ。もうもつれにもつれて、どうにも出来ない。そしてその朝のご理解に腹立ちを全て許してなすの花。というご理解。これはもう、十年くらい前に頂いたご理解でした。それを大城から参ってくる吉田さんという方がもうとにかくあの、それで、根も葉もない事を言い立てられて、村内でも大変苦しい立場にたたされた。それでもう腹が立って腹が立ってたまらん。はじめて、合楽の教会にご縁を頂いた時に御神米を頂いてその御神米にその教えが書いちゃった。腹立ちを全て許してなすの花。ナスの花という事はここではナスのお知らせを安心といわれる。ね。紫。ね。お醤油なんかのお知らせを頂いたら、それは苦労しておるけれども、あれは別名紫というでしょう。苦しいけれども、ここを辛抱していきよると必ず安心のおかげになてくるよというわけなんです。ナスもそうなんです。ナスの花が咲いている、勿論、しかもそのナスの花にはね、それこそ親の意見となすびの花は千に一つの仇も無いというほどしに間違いがない。千に一つの仇もない。いうなら仇花がない。もうそれを頂いた時に此の方はもう成り行きを大切にするという一点張りであの信心を高めておられる方なんですけれども、このご理解を頂いた時に今までの問題は一遍に解決したような心がしたといわれるわけなんです。本当に腹たちを全て許して自分の心の中にはそれこそなすの花が咲いておるような何か喜ばしさを感じさせて頂いた。先方にやらせていただく時にお家で沢山花を作っておられます。だから花を少し切って持っていかれた。それだけで何もなか。それだけで解決した。ね。問題というものは何かこう、いくじなものといくじなものがあって問題が問題を生んでいくわけなんですね。あれが右ち言うたら左ち言うごたる風な心が起こってくる訳。ところがこっちがもうそれこそ全て許して心の中にはナスの花を頂いておりますから、ね、相手にそれが通うた。もう全然問題ではなかったという発表を三四日前の研修の時になさっておられたそれを聞いて感心した。そげん時には相手に何か花の一つも持っていけれるその心の状態が助かっておる。ね。あれが今度はこげん言うたならこげん言うじゃろうかそんならこういおうと計算して行っとらんもん。
ただ信心のあり難いというだけで問題が解決しておる。ね。これも、梅山の奥さんが頂いたその御土産という方なんです。この人は不思議にそういう霊徳に触れていくのです。しかも的確なんです。先だって良方端という事を頂いた。どういう事でしょうかというて書いて持ってきた。良方の良という字はよしという字が書いてある。良という字ですね。方という字はかたと書いてある。端という字ははし、端から端とこういうでしょう。その端という字が書いてある。どういう意味でしょうか、そりゃどういうこっちゃなあと御願いさせて頂いたことでしたけれども、もう、教祖様が仰る此の方の道は喜びで開けた道じゃからもう喜びでは苦労はさせぬと仰せられるそれなんです。ね。極端から極端なんです。ね。これを腹立ちで受けたら地獄道。ね。あり難いで受けたら極楽道。良方の極端なんです。信心をさせて頂く者はその良の方、よしの方、方の極端を取らせて頂けよという事であった。中途半分ではいけん。そこをすっきりとあり難いで受けて行くという事になる。先だって伊万里の吉冨さんが壮年大会の時だった、司会をなさっておられて言うておられた事が私は中々素晴らしいことを言われるなあと思うた。合楽で言われるまあ、なんじゃったかね、シルクロードという。シルクという事は、反対によむとクルシと読む。ね。ロードとは反対に読んだらどーろと読む。苦しい道という事になる。反対に読んだら。ところがあれをなら、シルクロードの本当の意味というのはね、やわらかい絹のような道という事なんだ。それは実際は険しい道なんだそうですけれども、その険しい道も修行と受けその険しい道もなら、あり難いあり難いで受けていけばです、いうならシルクロードの道、苦しい道ではなくてあり難い道という事になるわけなんです。それと同じような意味の事を頂いたそうです。良方端。ですから本当に合楽理念はその時その時にですね、ここはこういう具合に受けるとそれが、お礼が反対に申し上げれるよという事なんです。ね。ありがたく受ける。もうとにかく合楽にお参りしてくるご理解を頂くと解決するでしょうが。それも本当に、安心立命といったようなものではなくてそのばその時に安心が行くという。金光教の安心というのはそれなんです。それでいいのだ。ね。
だからおかげが頂かれる。ね。不思議なんですよね。もうはがいいとか苦しいとかと思うて合楽にお参りをしてくる。障子を開けて入ってきたとたんに私が、御結界の奉仕をさせて頂いておってもう、それ見たばっかりで胸が一杯になってからはがいかとがなくなってしまったち。そげなとがありましょうが。皆さんも体験が。もう、おかげになるのです。そういう時にはご理解を頂いて、自分の心が平生心であり、安心でありこの事は安心。ね。それこそ、二三日前のご理解じゃないけれどもその事は神に任せて(?)の座にというのがそれなんです。ね。もうその事だけは神様に委ね任せる心が開けてくる。その心におかげがある。その心がつもり積もっていうならば徳ともなる。今朝のご理解を頂いておって思わせて頂いたのですけれども、いうなら合楽理念をマスターした覚えたこういう時にはこうという、があっておってもね、それに信心辛抱のね、いうなら力というか徳が伴わななかったら、いくら合楽理念でも値打ちがない。
ね。福岡の初代は馬鹿と阿呆で道を開けとこう仰った。久留米の初代は信心辛抱と仰せられた。馬鹿と阿呆という事は、ね、本当に馬鹿になる事かあほになる事かという事ではなくていよいよ泥の信心に極まったという事であり、その信心が実験実証させて頂くうちにこういうあり難いご神意の中にあったという事が分かってくるからありがたく受けられる。それを信心の薄い人や無い人は馬鹿じゃないじゃろうかと思うでしょうけれども、そこまでのおかげを頂くために久留米の初代じゃ無いけれども信心辛抱が入るのです。恐らくは久留米の初代の御晩年の頃はもう辛抱という言葉すら私は無かったのじゃないだろうかと私は思います。いわゆる信心辛抱のお徳なんです。三代様も信心には辛抱する事が一番大切でございます。はあ、こげな朝はよからいつまで(?)よかろうかという辛抱からねそれこそ、雨が降るから風が吹くから偉いと思うてはならん。その辛抱こそ、身に徳を受ける修行だと思うて辛抱していきよるうちにその雨が風がかえってありがたくなってくる。これは本当ですよ。私共が朝参りをさせて頂いて、ね、御湿りなんかの時には下がジュクジュクになる。それこそ、お広前畳が濡れるから御祈念をするといったようなときほどあり難いものを感じましたね、そして辛抱しぬくという事がこんなにもあり難いと分かった時こそ信心辛抱の徳です。ね。もう私は偉大というたら福岡の初代の言われるいわゆる馬鹿と阿呆で道を開けというほどしの偉大な信心はないと。大きい。ね。それに久留米の信心辛抱が伴うてくる。いうならば合楽理念のまあ母体とも私は思われます。ね。どんな場合であってもここは馬鹿と阿呆で、ここは辛抱出来んと辛抱しておるうちにです、いうならば成り行きを尊ぶとか大切にするとかといったようなものが生まれてきたのです。皆さん今日私が皆さんに聞いて頂きました結局合楽理念という事になりましょうけれども、ね、そして、私はその、根本的な理解というかいうならば金光教がどうやって前代未門なのか。ね。どういうところが和道十全なのかというところを分かり極めさせて頂いてもらうと私は昨日朝から頂いたようにですね、その、目には見えないけれども、色んな迫力というか(?)働きがこうやってあっておる。それに打ち勝っていくという確信を持って進んで行けれるという事にならない。ね。いうならば合楽理念の実験実証という事はいよいよ確信を本当の確信のしていくことであると思う。そこに生まれてくる心。安らぎ、いわゆる神を杖につけば楽じゃと仰る神を杖についてのおかげ。まだまだ金やら物やらを杖についておる。ね。そういう観念をいうなあ結局観念ですね。観念を金繰り捨ててそしていうなら神を杖につけば楽じゃという心の状態に、金も必要であろう健康も必要であろう。はじめてそこに足ろうたおかげ。いうなら貧争病のない、真善美輝かんばかりの世界を目指して、ね、しかも昨日頂く、神も助かり氏子も立ち行くという事。ね。私共はね神様を助けるという事の自覚。それにはまず、自分が楽というところまで位はおかげ頂かなね神様を助ける事は出来ん。
私は過去の仏様やら神様を沢山ござったでしょうけれどもこれはかえって天地の親神様を傷つけたり場合には(?)に殺しておるようなあり方がその教えの中にありはしないだろうかという事でございます。ね。例えばこの宗教は酒は飲まれん。この宗教は女は抱かれん。この宗教は生臭けは食べちゃいけないという事は神様から見たら神様から傷つけるようなもの。そんな事じゃない。食べてもよいぞ、飲んでもよいぞと。正、それに我情が我欲がまたは、大酒大食は絶食の元になるぞと教えてはおられますけれども、それを一切人間が人間らしく御の字をつけて神様頂きますという心あらば当たることもない世界を開いていく事なんだ。ね。そういう意味においてでもね、合楽金光教の信心が和道十全である。いわゆる宗教以前の宗教であるという事もそういう見地から皆さん分かって頂くとです、そして自分たちが頂いておる信心がこんなにも尊い大切なものである、なら今日の祈願祭でもです、夕べは十日の月次祭のお説教をビデオで皆で聞かせてもらって、私も改めてありがたいなあと思うた。今日のお祭りのことが話してある。お互いがもう祈願のお祭りだから、もう何でも願いに願っていいお祭りなんですけれどもその願いが少しは育たなければならない。少しはましな少しは神様が喜んで下さる安心して下さるような祈りが出来るように一回り大きくなった願いに立たせて頂こうじゃないか、そういう祈願祭に持ち込んでいこうじゃないかというお話でした。ね。一遍ちいうわけにはいかんのだから、一回りずつでも大きくなっていく。北野の秋山総代さんがこのご理解を頂いた時に、先生一回り大きくなるという事はどういう事でしょうかと。そうなあ、結局自分の祈りが実感としてです、今まで例えば秋山なら秋山家の方が真剣に願ったのを、隣近所のことも真から願えれれるようになる事が一回り大きくなる事じゃないだろうかというてまあ申しました事です。一回り大きくなる。しかもそれが天下国家のこともそれこそ天地の代表として玉串が上げられるように、私は風にも育っていかなければならない。ね。育ってさえ行きゃいわば神様も必ずいうならば、お互い願わんものはありませんけれども、人間の幸福の条件がもう、限りなく整うてくる。足ろうてくる。ね。
皆さんの今日の祈願というものがね私が読ませて頂いた御祝詞というのをですね只、御祝詞というのじゃなくて、あれが合楽の祈りなのだ。ならあの合楽の祈りに自分がどれだけあの祈りの中からあの祈りを実感として祈れておるかという事も一つ思うてみてねいよいよ神様を助けれるという手立てとはどういう事だろう神様が助かって下さる。今まで神様を傷つけたり、ね、それこそ、(?)に殺したりするような宗教もあった中に、ね、和道十全の道というのは、もう全てが足ろうたというのは人間が人間らしく生きながらこの道を進めていけれるいわゆるシルクロードの(途中切れ)十字架を背負ったような生涯であってはならない。ね。それは成る程、金光様の信心させて頂いたけん雨もなくなった風もなくなったそういうこっちゃ決してない。けれどもね百斤のことを難儀と思うておった事は百斤くらいの難儀は平気で持てれるようになった。むしろお礼が言えれるようになった。五百斤もたれ千斤も万斤も持てれるような力をねいよいよ頂いていく身に付けていく事のためにね、私共が、小学校から中学校、中学校から高校という風に限りない進展、極まりない信心をね、願っての信心。信心が楽しくてあり難いというのは、今まで知らなかった世界を知ること。今まで無かった力が出来ていくという事はこれに感じるからあり難い。そういう信心をいよいよ進めて生きたいと思います。
今日私はここに出てくる時に足がよろよろして大変きつかったけれどもお話頂きよったらこう元気の出たごたる感じでやっぱ好きなことですからよ。ね。やっぱりその初めから信心が好きという人はありませんけれども合楽理念の実験実証をしよると必ず信心が好きになるです。好きこそものの上手なれというですからね、やっぱり好きになるところまで信心を極めて行かなければなりません。
ありがとうございました。